ナガハタ ゼンジ(Lead Vocal,Guitars)
ZENJI NAGAHATA 1968年11月6日 福岡県北九州市生まれ


 映画「アメリカン・グラフティ」、50`s&60`sPOPS、ナイアガラ・サウンド、はたまた地元九州出身のアーティストの達の音楽の洗礼を受け、15歳の時にバンド「STEP」を結成。  1985年、CBS・ソニーのオーディションに合格。翌年には作曲家としてデビュー(TVアニメ「ハイスクール奇面組」主題歌等)。   1987年、松本 隆原作・音楽・監督の映画「微熱少年」にメインキャストで出演。またほぼ同時期にSTEPはエピック・ソニーよりデビュー。89年の解散までシングル3枚、アルバム2枚(伊藤銀次、村松邦男プロデュース)をリリース。  1989年、Jazzbilly Band「CASINOS」を結成。CDが主流となる中であえてアナログ盤をリリースするなどして、インディーズ・シーンで活躍。解散後はソロ・アーティスト「ナガハタゼンジ」として、バンド「FLIP CITY」を率いて渋谷Egg-Manを中心に活動。また、並行して作曲家としても少年隊、貴島サリオ等他アーティストに積極的に作品を提供。 1995年、各社争奪戦の末ソニーレコードと契約。翌96年、デビューに先駆けて、自身の曲でもある「MAGIC CHANNEL」(原曲名は「LOVE CHANNEL `69」)がTOKIOにカバーされ、大ヒットする。直後にシングル「モンキー・フェイス」、アルバム「FLIP CITY」でソニーレコードからデビュー。1997年、セカンドアルバム「カムデン」レコーディングの折、本人のあこがれのアーティスト、エルヴィス・コステロのバック・バンドであるジ・アトラクションズとの競演をアビーロードスタジオで果たす。 ラジオDJとしての評価も高く、FM北海道、FM福岡等でのレギュラー番組での軽妙なトークで10〜20代の女性を中心に絶大な支持を得る。 1998年初春、名曲の呼び声高い5枚目のシングル「クライベイビー」が九州のFM各局でパワープレイを獲得し、話題をさらう。また、ニック・ロウの来日公演でオープニング・アクトをつとめ、洋楽通にからも注目を浴びる。 同年夏、自ら主宰のレーベル「Backingham-Records」を設立。「ブリティッシュ・ポップ&モダン・テイスト」敬愛する風祭 東、笠松マサヨシとともに制作小集団「ザ・マフィンマン」を結成。アルバム「GOBSTOPPER」をリリース。また同タイトルのライブイベントを3ヶ月に渡り展開。これまでのサウンドをよりスケールアップしたサウンドで好評を博す。また、この時期その知識を生かし「洋楽ナビゲーター」としてFM福岡「ワンダフルワールド」のパーソナリティもつとめる。 1999年春、ナガハタの持つ「ポップス」の部分をクローズアップし、「夏」をキーワードにした3枚目のソロ・アルバムの制作がスタート。また、ザ・マフィンマンとしても年末に向けて活動の予定。



風祭 東(Bass,Guitars,Keyboards,Vocal)
AZUMA KAZAMATSURI 1963年6月13日 東京都新宿区生まれ


小学生の頃、従兄弟の影響でビートルズに出会い、偶然左利きということからポール・マッカートニーに憧れ、ベースギターを弾き始める。中学・高校時代は音楽活動に明け暮れる。既に当時からその才能はとどまるところを知らず、様々な全国規模のコンテスト等に出場。数多くの賞を受賞する。 高校卒業後もアマチュア・バンドを中心に活動を続けていたが、1985年頃TULIPを脱退直後だった安部俊幸、姫野達也、伊藤薫(のち上田雅利に交代)の結成した「always(のち、THE ALWAYSに改表記)」にヴォーカリスト・ベーシストとして加入。1986年、キングレコードよりシングル「好きさ」、アルバム「ALWAYS BE TRUE」でデビュー。これがプロとしての音楽活動のスタートになる。 THE ALWAYSのディスコグラフィーを通して聴くと、TULIPを彷彿させるスタート時の打ち込みを多用したサウンドから、よりライブを意識した生のサウンドへの変遷がうかがえる。これはひとえに風祭が持ち込んだカラーであり、THE ALWAYSがTULIPの亜流バンドになりえなかったのは風祭の存在が大と言えるであろう。 THE ALWAYSは1991年に東芝EMIに移籍。1995年に活動を休止するまでに、シングル9枚、アルバム10枚(企画もの含む)をリリース。300本以上のライブを実施。また、風祭自身ベーシスト、ボーカリスト、コンポーザーとしての評価も高く、バンド活動と並行して他アーティストへの楽曲提供、プロデュース、ライヴへの参加、FM富士、J-WAVE等でのパーソナリティとして幅広く活躍する。 現在、風祭は他アーティストのサウンド・プロデュース業を中心に活動しつつ、並行して杉 真理、松尾清憲、伊豆田洋之らと「 ピカデリー・サーカス」、「モンキー・フォレスト・バンド」、またTHE ALWAYSの上田のバンド「ガーリーズ」のメンバーとしても活動、ライブにレコーディングにと多忙な日々を送っている。 1996年からはナガハタゼンジのサウンドプロデューサーとしてレコーディング、ライブに参加。ナガハタと共にあこがれの地・ロンドンのアビーロードスタジオでアトラクションズとのセッションも実現させる。 ナガハタとは互いの音楽的ルーツが同じということもあり、1998年夏、笠松と共にTHE MUFFIN-MANを結成するに至る。



笠松 雅良(Drums,Percussions,Vocal)
MASAYOSHI KASAMATSU 1966年2月5日 長野県伊那市生まれ


初めて買ったレコードは「フィンガー5」というエピソードからもうかがえるように、TVやラジオから流れてくる歌謡曲を聴きながら幼少期を過ごす。中学生になる頃洋楽に目覚め、ビリー・ジョエル、スティーリー・ダン、ナックといったポップスやロックに始まり、ラリー・カールトーン、スタッフといった当時でいうところのクロス・オーバーミュージックの洗礼を受ける。本人いわく「小林克也の音楽プログラムが好きだった」とのこと。また、「ヴォーカルよりも、バックの演奏の方が気になるんだよね(笑)」とも語っている。 高校生になる頃、13歳年上の姉が趣味でドラムをプレイしていたことや、スティーヴ・ガットに衝撃を受け、ドラム・スティックを握るようになり、音楽三昧の日々を送る。 高校卒業後上京し、音楽学校メザーハウスに入学、日野元彦氏に師事。この時期身につけた独特のジャズ、フュージョン・ベースのグルーヴ感が彼の持ち味としてその後開花していく。 1990年、ドラマーを募集していたバンド「HIKOHKI」のメンバーに加入。キティレコード(当時)よりシングル「大嫌い」、アルバム「 STUDENT」でデビュー。これがプロとしてのスタートとなる。 HIKOHKIのメンバーとして楠瀬誠志郎のバッキングも経験し、バンドは3枚のシングルと2枚のアルバムをリリースして解散。その後はヤマハミュージッククエストにおいて、様々なアーティストのレコーディング、ライブ等のサポートを中心活動する。 1995年頃中山美穂のツアーで一緒だったメンバーを通じてナガハタゼンジと交流がスタート。そのまま、バック・バンドのパーマネント・メンバーとなり、エキサイティングなステージを披露する。また、レコーディングにもナガハタの2ndアルバム「カムデン」、シングル「クライ・ベイビー」に参加。 ロック畑出身のドラマーとはひと味違うドラミング聴かせてくれている。最近では猫沢エミのレコーディングにも参加するなど、多忙な日々を送っている。  1998年夏、「もっとフリーなスタンスで好きな音楽をやろうよ!」というナガハタ、風祭の意志に賛同、THE MUFFIN-MANを結成するに至る。


 新宿鮭さんのご好意で、THE MUFFIN MANのメンバーのプロフィールを転載させていただきました。
新宿鮭さん、ありがとうございました。


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